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2014. 08. 17  
紺碧の空と海に凛とそびえ立つ白亜の校舎。

卒業以来40年近くも経つのに母校の写真を取るなんて初めてのことだ。

九州の西の端でのんびりと育ち、都心部の受験戦争を知らない我々に先生は「君たちは井の中の蛙だ。」と言っては都会の生徒の何倍も勉強しないと大学には受からないことを懇々と諭した。

もちろん学習塾などはなく、そのため先生方は、始業前の朝1時間、放課後2時間の補修授業、さらには個人添削と忙しい時間を割いて厳しく指導してくれた。

夏休みも盆以外は補修授業のため毎日バスで通学した。
遊びたい盛りに勉強漬けの毎日が楽しいはずもなかったが、夏休み中の校舎はシーンと静まりかえり、ひんやりとした空気が心地よかった。

おかげで志望大学に合格し、熊本との縁はここから始まった。
考えれば今ある自分の人生の礎を築いてくれたのはまぎれもなくこの校舎なのだと思う。


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2014. 07. 17  
今年はゴジラ生誕60周年ということで、ハリウッド版ゴジラの公開やNHK-BSでのゴジラ映画の再放映等、ゴジラ人気が再燃している。

1960年代当時、子供はみんなゴジラに代表される怪獣映画が大好きだった。
私自身1962年封切の『キングコング対ゴジラ』を観て以来、ゴジラにとりつかれた一人だ。
正月や夏休みには決まってゴジラを観るために映画館の長蛇の列に並んだものだ。

そのころの子供にとってはゴジラもラドンやアンギラスなどと同じ、単なるカッコイイ怪獣というだけの存在だった。
特に何体も怪獣が出てきてはプロレスまがいの対決をやるようになってからは。

先日NHK-BSプレミアムで放映された第1作『ゴジラ』をあらためて観た。
怪獣映画ではまったくない、もっと怖ろしくて深淵なテーマを持った物語である。
その意味で本来製作者が意図したであろうゴジラ映画は第1作だけではないだろうか。


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2013. 08. 19  
中浦ジュリアンは、1582年(天正10年)に、キリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、ローマに派遣された天正遣欧少年使節の一人。

その記念公園が長崎県西海市西海町中浦にある。
http://www.nagasaki-tabinet.com/junrei/1019/gmap.html

中浦ジュリアンが中浦の出身であり、何かしらの記念碑があることは以前から知ってはいたが、特別行ってみたいとは思わなかった。

自分のルーツや郷土史に興味が湧いてきたのは、50歳を過ぎたここ数年のことだ。
実家から車でほんの少しのところなのに何で今まで行かなかったのだろう、と今あらためて思う。

西彼半島の西海岸を走る国道202号から少し海辺へ下ったところ、民家が立ち並ぶ中にひっそりと公園はある。
思ってたよりもうんとこじんまりとしていて、無人の資料館とブロンズ像が建っている。

伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノらとローマに向けて長崎を出港したとき、ジュリアンは14歳。
ローマ法王・スペイン国王に謁見するなどヨーロッパの各国で大歓迎を受けた後、1590年に帰国したときは22歳のりっぱな大人になっていた。

希望に満ちて異国の風土に触れたときの感動は如何ばかりのものだったのだろうか。
そして、帰国したとき、派遣されたときとはまったく違う世の中になっていたことを知った時の心中は。


2007年6月、ローマ教皇ベニディクト16世は中浦ジュリアンを福者に列福すると発表した。


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「ローマへの道」を指す中浦ジュリアン



2011. 03. 19  
前日の10日に出張のため上京した私は、いつもより2時間以上も早く羽田空港に着いて、3番搭乗口で15:40発の熊本行きJAL1811便を待っていた。

最初に揺れを感じたのは午後3時前だった。
始めはかすかだったが、そのうち横揺れの振幅がだんだん大きくなり、空港の建物自体がギシギシと音を立てて揺れだした。
揺れはすぐに収まるかと思ったが一向に収まらず、2~3分続いた。
これはただごとではないと感じ、そこにいた誰もが席を立ちあがった。

「東京が震源の大地震がとうとう起こった。」「よりによってその日にここに居るなんて何て運が悪い。」
いろんな思いが次々に頭の中をよぎり、やがて天井が崩れ下敷きになる自分を想像した。

ほどなくテレビに地震速報のテロップが流れ、皆が心配そうに見入った。
東北が震源 震度7、東京でも震度5強だという。
「おおごとだ」

横揺れはその後も何度も起こり、気持ちが悪くなりそうだった。
警備の係員が「気分の悪い人はいませんか」と見回っていた。

天井からは白い壁材が剥がれ落ちて床やベンチに降り注いでいた。
売店や食堂の従業員、CAの方も皆待合いロビーに出てきて心配そうに座っていた。

やがて、テレビでは津波が車や家を押し流していく映像が流れ、どよめきが起こっていた。

機体や滑走路、設備の点検が終わり、安全が確認されるまで機内案内はお待ちください とのアナウンスが流れた。

皆が携帯で職場や自宅に連絡を取ろうとしたが、なかなかつながらず、公衆電話に列ができた。
こういう非常時には逆に固定電話のほうがつながりやすい。

飛行機が嫌いな私もこの時ばかりは「早く飛びたい。地面を離れたい。」と思った。

幸い2時間遅れで飛行機は飛び立ち、ホッとした。
羽田を飛び立ってまもなく左側の窓際の乗客はしきりに下界を見下ろしていた。
お台場で起きたという建物火災が見えたのだろうと思った。

いつもはテレビや新聞で知る災害をリアルタイムで体験し、自分の中で明らかに人生観が変わった。

「人間いつ何処で死ぬかわからない。」

「せまりくる身の危険」「大切な人を失うこと」に比べれば、日常の些細なトラブル、仕事上のミスや遅れ、つまらないことが原因のいさかいなど、すべてとるに足らないことだ。

2008. 12. 07  
いやあ、本当にびっくりした。
まさか、あのデラ・ホーヤがあんなぶざまな負け方をするとは。

ボクシング史上初の6階級制覇を成し遂げたオスカー・デラ・ホーヤ(米)とアジア人初の4階級制覇を達成したマニー・パッキャオ(比)とのスーパースター対決12回戦は先ほどラスベガスで行われ、8回終了TKOでパッキャオがデラ・ホーヤを下した。

下馬評では圧倒的にデラ・ホーヤ優勢だったが、いざフタを開けてみると、パッキャオの一方的な試合。
スピーディーなパッキャオが的確なパンチを繰り出し、リーチで勝るデラ・ホーヤが手も足も出せない状況は最後まで変わることはなかった。

もともと階級制のボクシングでは、元ミドル級(72.57㎏以下)のデラ・ホーヤとライト級(61.23㎏以下)のパッキャオが戦えるはずはないが、二人はこの試合を実現させるためにウェルター級(66.68㎏以下)に体重を調整して臨んだ。

結果的に、試合は体重を落としたデラ・ホーヤに不利に働いた。

パッキャオのパンチを浴びて無惨に顔が腫れ上がったデラ・ホーヤにゴールデン・ボーイの輝かしさはなかったが、素直に自分の負けを認め勝者を褒め称える落ち着いた表情からは潔ささえ感じられた。

この試合に負けたことで引退もささやかれているデラ・ホーヤだが、リスクを恐れず、常にファイターとしてファンに夢を与え続け、プロモーターとしてこのドリーム・マッチを実現させた彼に拍手を送りたい。



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